久居八幡宮御由緒
主祭神: 品陀和氣命(第15代・應神天皇)
相殿神: 十一座
・元久居西鷹跡町鎮座久居神社御祭神 藤堂高通公
・元藤堂家江戸屋敷櫻稲荷神社右の御祭神 罔象女神(小戸木神社御分霊)
・元境内社浅間神社御祭神(冨士権現) 木花咲夜姫命
・元境内社天満神社御祭神 菅原道真公(京都・北野天満宮御分霊)
・元境内社金毘羅神社御祭神 大物主神(香川・金刀比羅宮御分霊)
・元境内社津島月読神社御祭神(祇園社) 須佐之男命(愛知・津島神社御分霊)、月夜見命
・元境内社朝日神社御祭神 天照大御神、大穴牟遲神、少毘古那神、八百萬神、蚶貝比売神、蛤貝比売神、宗忠大明神
・元久居万町鎮座愛宕神社御祭神(愛宕権現) 加具土命
・元久居万町鎮座愛宕神社境内社天満神社御祭神 菅原道真公
・元久居万町鎮座愛宕神社境内社國津神社御祭神 猿田彦大神
・元久居万町鎮座須賀神社御祭神(牛頭天王) 須佐之男命
御由緒:
当八幡宮は、第百十二代霊元天皇の御代、寛文十年(1670)に久居の総鎮守として鎮座された。
津藩主藤堂高虎公の孫である藤堂高通公は寛文九年(1669)に分封の命を受け、野辺野と謂われていたこの地を築城と、城下町を建設するのに良い処と選び、永久に鎮居するという願いを籠めて、久居と名付けられた。
久居初代藩主となった高通公が藩領内の小戸木村(旧鹿嶋村)に鎮座されていた八幡宮(創祀年代不詳。現在の小戸木神社付近)を「大守の御氏神・久居中の守護神」として崇め、寛文十年に小戸木村から久居陣屋の鬼門(艮)の方位に当たる現在の地へ遷された。このことから、古くは神輿の担ぎ手は小戸木の青年に限られ、小戸木村は現在でも古(もと)氏子と言われている。
鎮座と共に別当寺である長開寺が開基され、元禄九年(1696)には久居山長開寺福寿院として真言宗醍醐寺三寶院の御直末寺となった。長開寺は修験道場で、藩主の元服式や厄除けの神事、領内の祈祷を行った。当時は神仏混合であり、境内には八幡宮、宝殿、護摩堂があり、八幡宮の祭祀も別当により行われていた。
爾来久居の総守護・藩の祈願所として、歴代藩主をはじめ領内住民の篤信を集め、祭礼等は藩を挙げて盛大に斎行された。お祭りはかつて太陰暦九月十五日に行われ、芝居や狂言、奉納相撲などが催されて賑やかであった。
明治維新の神仏判然令によって長開寺は廃寺となり、三重県の神社の合祀は殊に著しく、県内の神社の数は九分の一以下になった。明治四十一年四月に、久居村内二十三社が久居八幡宮に合祀され、神社名は土地の旧名に因み野邊野神社と改称された。それ故に、当八幡宮は「のべのさん」とも呼ばれている。
廃藩後も毎年一月一日に久居藤堂家、二日には津藤堂家より幣帛が奉られた。明治三十九年に神饌幣帛料供進社に指定され、社格として村社に列せられたが大東亜戦争終戦とともに社格は廃止された。
久居は幸いにも戦災を免れたが、久居出身の戦没者の慰霊の為、昭和四十一年四月に以前から境内にあった表忠碑の傍に久居英霊殿が新たに造営された。
また、神域が幼児期教育の環境に最良と考え、昭和四十四年に学校法人野辺野学園を設立、のべの幼稚園を開園した。翌年に九州・太宰府天満宮より御分霊を奉戴し、境内社として野邊野天満宮が造営された。
平成二十四年、現在の神明造りの本殿と入母屋造りに唐破風向拝の拝殿の造営が行われ、御神威が益々高まった。
令和二年には久居八幡宮御鎮座並びに久居開闢三百五十年の佳節を迎え、それを機に社号が野邊野神社より、久居藩祖藤堂高通公が久居総鎮守として篤信した「久居八幡宮」の旧社号に復された。
久居はその名の通り気候温暖にして災害もなく、八幡大神の御神徳の賜と、永久鎮居を祈る氏子、全国の崇敬者の篤い信仰を集めている。
境内社
野邊野稲荷社
祭神|倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
五穀豊穣・商売繁昌・各種産業の守護神であり、「願かけ稲荷」とも呼ばれている。
野邊野天満宮
祭神|菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
九州・太宰府天満宮より勧請せられ、学問の神様として信仰されている。
壽命社
祭神|伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
伊邪那美命(いざなみのみこと)
万物の寿命を司る神様をお祀りし、健康長寿の御利益があると言われている。
鹿島大神(石体)
祭神|武甕槌命(たけみかつちのみこと)
茨城県・鹿島神宮と同じく、勝負、武運、地震除けの神様である。
庚申さま(石体)
江戸時代から境内にお祀りされ、庚申の日にお参りすれば延命長寿の御利益があると伝えられている。
山神さま(石体)
もともとは村々の入り口にあったが、明治時代に神社に集められた。昔から子供達も守り神と言われている。
久居英霊殿
祭神|久居の御英霊 九百八十余柱
護国の御英霊を偲び、昭和四十一年三月に造営された。